お酒は、きっと人並み以上に飲むタイプだ。
若い頃なら多くの人が通るバカな飲み方や失敗もひと通り経験して、今では酒を飲んでも飲まれるということは随分少なくなった。
お酒は上手く付き合えば人との距離をぐっと引き寄せてくれる。
映画でも観ながら酒をあおれば、感受性が高くなり思いがけず世界観に没入してしまうことも。
お酒は人と人の交流を促し、人を情緒的にしてくれる。少なくともぼくにとってお酒はそういうものだ。
一方で、珈琲はどうか。
毎朝、決まって飲む珈琲がある。
それはなにも小洒落たものではなく、社内に設置された50円の珈琲。
出勤するとまずバッグを席に置いて、財布から50円を取り出し自販機まで珈琲を買いに行く。
そうして珈琲を飲みながら仕事の前日までの進捗、今日やるべきことなどを頭の中で整理する。
思考を仕事モードへ切り替えるための、ぼくなりのスイッチが朝の一杯のコーヒーだ。
時間がある週末の朝などは、買ってきた豆を挽いていつもより丁寧に珈琲を淹れる。
珈琲豆の香りが部屋いっぱいに広がる頃には、起き抜けの働かない頭もすこしずつ覚醒してくる。
ゆっくりと抽出される珈琲を待つ間は、「後で考える」ラベルをつけられて頭の中で山積みになっていたあれこれを取り出して、考えを巡らせる。
淹れ方について強いこだわりはない。この待つという時間のために珈琲を淹れているのではと思うことすらある。
ぼくがブログを書くとき、その側にはいつも珈琲がある。
家で作業するときも外出先のカフェにいるときも、飲むのはいつもブラック。
文章に詰まった時は珈琲を一口。
口に広がるその苦味が刺激となり、ふと気に入った文章が浮かんでくるということがよくある。
ぼくにとって、お酒が人との交流を生み出し情動を駆り立てるものだとしたら、珈琲はただひたすら自分自身に内省を促し、思考を鋭敏にさせるものだ。
お酒は自分と人との壁や、理性と感情の境界を曖昧にする。
それに対して珈琲は自他の境を区切り、理性と感情の輪郭を明確に定義してくれる。ぼくにとって珈琲の役割はきっとそういったものなのだと思う。
この感覚は、ちょうど17世紀から18世紀のイギリスにおいて、コーヒーハウスが近代の市民社会の基盤となる世論構築の場として機能した事実とも符合する。
また17世紀のフランスにおいてもカフェは政治議論の場であり、それは後のフランス革命の遠因となった。
当時の人々は酒を飲んで酩酊する代わりに、珈琲で冴えた頭で政治や思想について語り合ったのだ。
ぼくもそんな賢人にならい、ぼくも珈琲を片手に日々革命旗を打ち立てていく。
革命といってもたいそうなものではなく、それは昨日よりもちょっとはマシな今日を作ろうという、日々のささいな研鑽だったりする。
派手な方のやつはお酒に任せておけばいい。
目には見えないけれども静かに、人知れず心の中に起こす革命が、珈琲には似合うと思う。