ぼくの住んでいる祐天寺駅の駅前には赤提灯が吊られた大衆居酒屋があります。
店内には20名分ほどの狭いテーブルと背もたれのない椅子が並び、店の前にはドラム缶をテーブルにしたパイプ椅子の卓が1つ。
ぼくは毎日その店の前を通って家に帰るんですが、その時にあるささやかな楽しみがあります。
それが店外に置かれた黒板と、そこに書かれるちょっとした文章。
そこには大衆居酒屋のスタッフと思しき人が、週替わりでなんの変哲もない日常の言葉を書いています。
大体が100文字ちょっとの分量なんですが、要約すると1文で済むような他愛もないことばかり。
ーー子供の頃七夕に、蝶々結びができるようお願いしたら、翌日から急にできるようになった。
ーー常連さんがマラソンに出ると聞いて、ジム用に買ったシューズを開けずに置いてあることを思い出した。
大抵がこんな要領で、お店のトピックスについて書くわけでもなく、意味という意味もないような文章。
今の家に越して来たすぐの頃は「なんのために書いてるんだろう」と思いながらも、毎日そこを通るので自然とそれを毎度読むようになりました。
最初は無感情で見てたその文章。それでも2ヶ月も3ヶ月も毎週のように読んでいれば「今日は文章が変わってるかな?」と、いつのまにかその文章を楽しみにしている自分がいました。次第にその店の前を通る時は、ふと、その看板に目をやるように。
ーーなぜか今朝は早起きできたけど、そのぶん午後に昼寝をしてしまい、朝の貯金がゼロになった気分です。
相変わらず書いてある内容にはさしたる意味はなく、たまにクスリとする時もあるけど基本的には自分の手の届く範囲の日常を綴っているだけ。
それでもその文章を読むことはすでに日課というか、自分の生活の中の一部になっていました。1日24時間の箱の中いっぱいに敷き詰められた自分の関心をギュッと詰めて、ちょっとだけ空いたその隙間にそっと空間を作るような。
でもある時から店の前に毎日置いてた看板が置かれなくなったんです。
最初は出し忘れかなと思っていたんですが、1週間経ってもお店は普通に営業しているのに黒板だけ出ていない。
生活の中にその文章を読むことがすっかり入り込んでいたぼくは、文字通りどこかぽっかりと(とはいえとても小さいものだけど)穴が空いた気分でした。
なくても全然困らないんだけど、ちょっと気になる、そんな感じ。
そんな日々が2週間ほど続いたある日、仕事帰りにいつもの道を通っているとそのお店の前に見慣れない大きな看板が。
見ると一回りほど大きく、そして綺麗になった黒板。そしてそこには見慣れた文字で文章が書かれていました。
ーー店長に新しい黒板を買ってもらいました!書きやすくなったので仕事サボってたくさん書きますね。(店長にはナイショ)
いつもと同じ調子の特に意味のない文章。でも気づくと、思わず心の中で小さくガッツポーズをしている自分がいました。
ブログも有益な情報を書くことももちろん大事だけど、どんな日常のとりとめもないことでも、とにかく書くということが大切だと思う。
なぜなら続けることでその文章は誰かの目に触れ、そしてやがて生活の一部になるはずだから。
こんな風に毎日ブログを書いているぼくだって、その全てが絶対に人の役に立てている自信なんてない。読み手の顔が見えないブログで、何を書けばわからなくなる時だってしょっちゅうあります。
それでもただ書く。思っていること、伝えたいことを未熟でも書く。この文章が誰かの生活の一部になっていることを信じて。
久しぶりに読む見慣れた文字と、黒板が新しくなったことを嬉しげに綴る文章。それを見てガッツポーズしたあの時の気持ちはきっととても自然なものだったと思うから。
「ブログを書いてみたいけど、自分に書けることなんてない」と言っていた君に、あの日伝えたかったこと。